こちらに引っ越してきてから、いまだに散髪する店を決めかねている。前回、地元の散髪屋に思い切って飛び込んだのだが、酷い目に遭ったので別の候補店を探していた。
その時「今後は義妹に頼もうと、硬い決意をしながらカットしてもらった」のだが、さすがに毎回カットしてもらうとなると気が引ける。そうこうしている内に、散髪に行かなければいけない状態になってきた。
結局は消去法で、前回行った散髪屋に行った。場所的に選択肢が少ない状況ではあるのだが、それ以上にあれこれ悩むことも、その時間も無駄だと思ったからだ。思い切って店に入って行ったのだが、思った通りのノーリアクションだ。「いらっしゃいませ」すら言わない。
先客がいたので待合の椅子に座ろうとしたのだが、利用道具をのせた台が邪魔で、座れる椅子が二つしかない。ちょうどクーラーの下に当たる場所だ。そこに座っているとおもむろに店主が、わたしの近くに寄ってきた。そして黙ってクーラーを見上げている。「クーラーの調子でも悪いのかな」と思ったが、店主は一言も喋らない。するとたまりかねたのか、横で客に剃刀をあてている奥さんが、「横に寄って貰ったらいいですよ」と言ってきた。
最初は何でそんなことを言うのか、意味がわからなかった。しばらく返答に困って黙っていたら、どうやらクーラーから水が漏れるらしい旨を伝えられた。そして店主がやっと喋った言葉が、「水かかったか?」だった。
「はあ?先に言えよ!」と、心の中で叫んだ。だいたい理容道具が邪魔で、そこにしか座れんかったんやろう?こっちが座る前に道具を退けとけよ!と、口には出さずに一人でノリツッコミした。
自分で利用道具がのった台を横にずらして、座り直した。そして何気なく前を見ていたら、一枚の手書きの貼り紙が目に付いた。ぼんやり眺めていたら、なんとそこには今月末で閉店すると書いてある。
店主が馴染みの客らしき人たちにその話をしたら皆驚いていたので、その張り紙には誰も気づいていなかったのだろう。それほど目だない張り紙だった。
客と話しているときに、「もう59年この仕事をしてるんや」と言っていた。「もう引退してもいい年や」とも言っていた。聞いている客たちも皆、お疲れ様でしたと快く閉店を受け入れていた。確かにもう引退してもいい年齢だろう。
「このままでは老後がなくなってしまう」と言っていたのも、印象的だった。見た目ではもう80歳は超えているような感じなのに、今から老後を迎えるという感覚は斬新だった。サラリーマン根性の染みついた我々とは、感性が違う。
わたしの番になってカットが始まった。さすがに慣れたもので、手際がいい。ただ、左耳の上をカットするときに、店主の指がわたしの左目に当たる。前回もそうだったことを、その時になって思い出した。「気がついていないのか?」と思ったが、言っても無駄そうだったので黙って目を閉じた。それでもぐいぐい押してくる。わざとやっているのかと疑いそうになった。
散髪が終わった後も、閉店のお知らせはもちろん、「ありがとうございます」の一言もなかった。もちろん想定内だったので、問題はない。ただ、やっと踏ん切りをつけたのに、またいちから散髪屋探しを始めまければならないのが少々辛いと思いながら帰路についた。