車の運転をやめる判断は難しいが、それは自分で決めれるのだろうか

Miscellaneous notes

自分が車の運転をやめる時期を、少し真剣に考えるような歳になってしまった。いつかはこんな日が来るとは思っていたが、まさかこんなに早い時期にとは思ってもみなかった。もちろん今すぐやめる気ではないし、実際やめられない。だが、そう考えるようになったのは最近の運転のせいだ。
わたしは免許を取ってからすぐ、毎日のように車の運転をしている。というのも、免許を取った次の日には、車を購入した。この日のために、事前に交渉をしていた。買ったのは中古車で、確か50万円をキャッシュで払った。大学の友達の紹介で、個人の中古車業者から買った。ちょっと怪しかったが、その時は車を手に入れられる喜びで、あまり気にしなかった。
大学にも車で通っていた。うちの大学には学生も停めれる駐車場があった。今から思えば、いい大学だ。その駐車場がいっぱいでも、近くの道で当たり前のように路上駐車ができた。本当にいい時代だった。しかし、わたしが卒業するときには駐車場はなくなり、路上駐車も近隣の住民からの苦情が殺到したため、急に厳しく取り締まるようになった。
社会人になってからは仕事で、毎日車に乗って営業活動をしていた。毎年、移動距離も伸びていった。仕事の半分の時間は、車を運転をしているようになってきた。市街地はもちろんだが、高速道路や峠など、あらゆる種類の道路を運転してきた。特に雪道は長い間運転してきたので、そこそこ自信がある。
毎月運行日報をつけていたのだが、一番多い月で7,000kmを超えることもあった。これも社用車だけの走行距離なので、自分の車の分まで入れたら、相当な距離になっていたと思う。今では完全にコンプライアンス違反だろう。この月間の走行距離だが、同業他社では規制があって、月に3,000kmを超えるのは考えられないと言われたこともある。
免許証返納のニュースなどを見ていていつも思うのは、なかなか自分では踏ん切りがつかないものなのだということだ。どうしても自分に対する判断は甘くなりがちだ。その上歳を取ると頑固になるので、なおさら自分が衰えてきたことを認めたくなくなる。自分の親たちを見てきて、それを近頃実感する。
だから、わたしはあるとき一つの指針を決めた。奥さんがもう車の運転をやめろと言ったときには、すっぱりとやめる。これなら信頼できる第三者の判断なので、間違いないだろうと思ったのだ。
だが、この指針があるとき、一気にブレてしまった。それはバイクに乗ると言ったとき、すぐに反対されたからだ。年齢的なこともあるし、確かに車より危ないのは間違いない。だが以前よりバイクに乗ることは話をしていたし、今までも実際に乗っていた。まさか今になってこんなに反対されるとは、夢にも思わなかった。
やっと雪の降らないエリアに引っ越せたので、さあこれからだと喜んでいたところでのまさかのNGだ。どうしても合点がいかないので理由を聞いても、「その歳では危ない」の一点張りだ。自分で決めた指針なので、従わないわけにもいけない。そうこうしている内に、時間が経過していく。するとバイクに乗るという熱も冷めてくるし、気力も薄れてくる。現在ギリギリ崖っぷちで、踏ん張っている状態だ。
しかしよくよく聞いてみると、どうやら危険だからというよりも、値段が高いからやめろと言っているみたいだ。これには正直驚いた。指針がブレているのではないか。確かにバイクの運転が、危ないことには間違いがない。バイクの運転は車より、集中力や体力も必要だ。だが、それと指針とは、ちょっとズレているのではないのだろうか。
そしてまた間の悪いことに、右膝が悪くなって歩くこともままならない。そんな脚でバイクに乗れるのかと、突っ込まれる。返す言葉が見つからない。このままバイクに乗ることは、諦めなければいけないのだろうか。ここ数ヶ月が正念場になりそうだ。

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