数年前に本屋で、「利己的な遺伝子」を見かけた。
どうして平台に積まれているのかと思ったら、40周年記念版だった。
以前から読んでみたいと思っていたのだが、何せボリュームに圧倒されて手が出せなかった。
いつか時間ができてからと、敬遠していた。
その時も仕事が忙しいせいにして、見送った。
そして退職に伴い時間にたっぷり余裕ができたので、そろそろ読んでみようかと思うようになってきた。しかし、手に取ってみると、相変わらず言い訳するには十分のボリュームだ。
「知のモラル」を読んでから気になっていた
もう30年近く前に、「知の技法」という本が発売された。
東京大学教養学部でのでの必修科目「基礎演習」のサブ・テキストとして編集された本だ。
今までにあまり見たことのない編集の仕方で、とても新鮮だった。
当時は何だか嬉しくて、引き込まれるように読んだことを思い出す。
この本は教科書に準ずるものとして構成されているのだが、半・永久的に通用することを目的とはしていないらしく、「賞味期限」も数年と断言している。最初からシリーズ化していくつもりだったのだろう。そして実際に「知の論理」、「知のモラル」と、一年毎に立て続けに発売された。
その「知のモラル」の中の「種と個のあいだ」で、長谷川眞理子氏が「利己的な遺伝子」を紹介している。その中にある挿絵の一つが、これだ。
このレミングというツンドラ地域に住む動物が集団自殺するイラストのイメージが、頭の片隅に残っていたようだ。それがドーキンスの名前と一緒に、記憶されていた。
ただ、今あたらめて見てみると、レミングがこんなに小さかったかなと思ってしまう。
自分の頭の中で勝手にレミング自体が大きくなっていて、そのイメージが変わってしまっている。
この「利己的な遺伝子」という言葉が、とても新鮮でインパクトがあった。
間違いなくこの時に、この言葉が私の脳にしっかり記憶されたのだろう。
これだけインパクトのある題名なのに、初版の邦訳刊行時には「生物=生存機械論」という不思議な邦題だった。それも11年間も続いたそうだ。その理由を翻訳者の一人である岸由二氏が「利己的な遺伝子」のあとがきで、その挑発的なタイトルのせいで「門外漢が押し寄せ、誤用・悪用・混乱が跋扈することは必定と思われた」かららしい。しかし、のちに原書の改訂版が出たのを機に「利己的な遺伝子」と改題して刊行したら、売り上げが爆発的に伸びたらしい。
それなら最初から「利己的な遺伝子」のタイトルでやっておけば、もっと爆発的に売れていたのではないかと思うのは私だけだろうか。
ちなみに、第2版への訳者あとがきで日高敏隆氏が、「普通には思いつかない日本語タイトルで出版されたため、この本も日本の読者も、ずいぶん損をしたと思う」と言っている。そして、第2版から「利己的な遺伝子」に変更することにより、「混乱は少しは減るかもしれない」と言って締めている。
東京大学教養学部 の「知の三部作」も、現在「知の技法」だけがKindle版で販売されている。
「新・知の技法」の「はじめに」では、98年1月時点で、この三部作の総発売部数は70万部に達すると書いてあった。「賞味期限」が切れているとはいえ、再刊されないのは寂しい限りだ。
いきなりでは挫折しそうな気がしそうな予感がした
しかし、どうしても読む気が起こらない。そこで、ドーキンスの別の書籍はないかと探していたら、ちょうどいいのが目についた。
子供を対象にしたレクチャーを編集したものなので写真や挿絵も多く、とても読みやすい。
巻末にあるインタビューも、とても興味深い。
ただ、子供向けとは思えないほど、内容が濃い講義になっている。
ドーキンスを理解するための入門書としては、最適だと思える。
何故か気になり、読んでみる
そろそろ本番に取り掛かろうかと思ったら、ふと一冊の本が目に留まった。
もう一冊読んでおいてもいいかなと思い、読み始めてみた。
最初のページに綺麗な写真やイラストがあり、それに合わせて話が続いていく。
しかし、ドーキンスの博覧強記振りは圧倒的だ。博識や知性が行間から溢れ出してくる。
ただ、もとの文体自体が、長くて回りくどいせいなのだろう。訳文もそれにつられてどうしてもしつこく、理解しづらいものになってしまう。翻訳者泣かせな話だ。
その上、図表の数が少ない。挿絵も最小限に抑えているかのように、遠慮気味に挿入されている。
そういったものを使わずに、あえて自分の言葉で説明しているようだ。
なんだかそれを、楽しんでいるようにさえ感じてしまう。
意を決して読み始める
やっと覚悟ができて、「利己的な遺伝子」を読み始めた。
ただ今回は、本文中にほとんど表や挿絵がないのだ。
12章に少し表があるだけで、他には全くない。
あと、章が節などで分けられていない。一つの章が、まるまる一つの作品になっているようだ。
普通、見出しは、「部」→「章」→「節」→「項」→「目」の順に割り振られている。だいたい、章、節、項ぐらいに分けられているのが普通だ。今の書籍は本当に細かく分けられており、目次を見ると何ページにもわたっていることが多い。そのためとても読みやすくて、理解しやすくなっている。目次だけを見れば、話の内容が大体わかるようにさえなっている。
これを見た時に、なぜだか森博嗣氏のことを思い出した。
以前、森博嗣氏のインタビューをポッドキャストの番組で聞いたことがある。
その時の話が印象的だったので、よく覚えている。
まず彼が小説を書くようになったのも、自分の娘に読ますためだった。娘が読んでいた小説があまりにも面白くないので、それなら自分が書いてやろうと思って始めたそうだ。
そして書き始めたのだが、書くことはもう全て頭の中に入っているそうで、あとはそれをパソコンに打ち込むだけらしい。そして腕が疲れた時点で、打つのをやめるそうだ。腕さえ疲れなければ、ずっと書けると言っていた。
まるでモーツァルトのようだ。始める前から完成品が、頭の中に出来上がっているのだ。
ドーキンスも、これと同じような感じがした。つまりもう、書く前から書くことは全て頭の中に入っているので、一章まるまる一気に書き上げている感じだ。いやもしかすると、一冊まるまる書き上げたのかもしれない。
私のように読むスピードが遅く、根気が続かない人間には、長く読み続けることが非常に辛い。そして、どうしても中途半端なところで切ってしまうので、次に読む時に話がわかりづらくなってしまう。かと言って、一章を一気に読むほどの根性がない。困ったものだ。
補註のボリュームに圧倒される
何せ補註が、2段組で75ページもある。どれだけ詳しい補註なんだ。
初版で書いた第11章までを対象としているので、今後増えていく可能性もある。
そのためスピン(洋装本で栞として用いるひも)も、ふたつ付いている。
該当箇所によっては、6ページ以上にわたって説明しているものもある。
言い足らなかったことや、もっと説明したいことを、追記したような感じだ。
1976年以来、幾度かの改訂や増補はあったものの、30周年記念版から追加されたのは、「40周年記念版へのあとがき」だけで、それ以外の修正等は一切ないらしい。
ただ、誤りはあるようで、自身でも「遺憾ながらじつはこの発言は誤りだった」と、補註で認めている。(p.505 *4)そして、「しかしこの誤りは興味深いものなので、訂正はせずに、代わりにここでいくらかの解明を試みておくことにしたい」と言って、解説を続けている。
40年経っても色褪せない
「利己的な遺伝子」や「ミーム」という言葉は、もうすっかり社会に溶け込んでいる。
その意味を確かめるために、読んでみるのもいいかもしれない。
また、40年前に提案した、「生物進化の基本は遺伝子の自己複製である」という考え方を一切修正していないのも素晴らしい。全くブレていない。
ドーキンスの本を読んだときに、ユヴァル・ノア・ハラリの本の内容が浮かんできた。
ハラリも、多少なりとも影響を受けているのだろう。
あと、「優性遺伝子」「劣性遺伝子」が2017年秋に、「顕性遺伝子」「潜性遺伝子」に変わったことは、この本で初めて知った。